小さいながらも素朴な冠木門をくぐれば、割竹垣に囲まれた小庭、そして、わずか三間の古びた平屋建ての邸宅が目に入ります。昭和初期の一般家屋よりも天井の高さが一尺ほど低く、茶室風に造られた四畳半の小座敷は書斎として使われました。
昭和16年「左義長」を見に訪れた藤村は、大磯の温暖な気候が気に入り転居を決めました。当時のサラリーマンの給料30年分に相当する金額でこの邸宅を買い取り、終の棲家としました。造りは、萩の枝で作られた下地窓や、今では珍しい「大正ガラス」など、建造物としても希少価値が高く、藤村亡き後は作家高田保が住み始めました。
国道から横道に逸れ、案内板に従って進むと突如「旧島崎邸向い側」という看板が見つかります。この看板で目の前にある家屋がそれだと気づき、改めてその簡素な造りに大正・昭和の匂いを感じてしまいます。
国道1号線沿いを小田原方面に進むと、うっそうとした木々に覆われた一画が目に飛び込んできます。庵に通じる階段を降りていくと、そこは「煩悩」とは無縁の世界。川のせせらぎと濃密な空気は一瞬にして気持ちをリフレッシュさせてくれます。
ここにある庵こそ、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場のひとつと言われている鴫立庵です。また、木造平屋の日本の伝統的技法を用いた史跡として、町指定有形文化財に選ばれており、敷地内には回遊性のある遊歩道が設定されています。
西行法師の歌で名高い鴫立沢に、寛永4年小田原の崇雪が草案を結んだのが始まりとされていて、元禄8年俳人の大淀三千風が入庵し、第1世庵主となりました。
大磯を起点とする太平洋岸自転車道は、藤沢市鵠沼海から茅ヶ崎市柳島までの砂浜に沿って建設された「湘南海岸・砂浜のみち」の延長区間です。
並行する西湘バイパスの区間を無料でサイクリングでき、海岸沿いを専用道路で走る快感は格別です。横で自動車が80km近くのスピードを出しているので最初は驚きますが、その先に映る相模湾の景色を望めば、自然とペダルを漕ぐ足も軽くなります。
総距離は大磯中学校前から旧吉田邸地区までの約2kmですので、初めての方も気軽にチャレンジできます。また、その先も続けたい場合は国道1号線に出なければならないので、地図であらかじめチェックしておくことをお薦めします。
大河ドラマ「八重の桜」でも話題になった、新島八重の夫、新島襄の生涯最後の地として石碑が建っています。
場所は注意して歩いていないと見過ごしてしまうほど、ひっそりと佇んでいます。明治維新後、社会に西洋の見聞を広め、教育に尽力した彼の功績を称えるには少々物足りなさを感じてしまいます。
新島襄は大隈重信、福沢諭吉らと共に明治の六大教育家として知られ、同志社大学の創設者であることは有名です。新島は大磯町の旅館「百足屋」の一室で47歳の生涯を閉じ、かつての百足屋の玄関だった場所の一部には徳富蘇峰の筆による碑が経っています。
大磯駅の南、相模湾に向かって突き出たところに大磯港はあります。漁協直売のとれたて鮮魚の「朝市」や漁協直営の食堂が人気です。町営プールも近くにあり、夏休み中は近所の小学生たちが毎日のように足を運びます。また、港の防波堤の横にある「照ヶ崎の帰帆」は「大磯八景」のひとつで歌碑が建っています。
漁港周辺は海水浴場の賑わいとはまた別の趣きがあります。近所の方々が防波堤近くで釣りを楽しんでいる姿がよく見られ、お年寄りから子どもまで楽しめる憩いの場所となっています。
また、夏には毎年ビッグアーティストを迎えて熱いライブステージが開催される「なぎさの祭典」が行われます。フィナーレを飾る花火大会は一体となった会場の雰囲気に華を添えます。
東京から相模川を渡ると、車窓の景色はぐっと海岸に近づき、空気も町の様子もがらっと様変わりしたような感覚にとらわれます。
実際、高層ビルもなければ、町中に張り巡らされた電線さえもありません。観光事業の一環として東海道の風景を後世に残そうと、町を挙げて再整備を行いました。視界が開け、どこまでも続く空は、江戸時代の旅人と同じ景色を見ているはずです。
自然と歴史というふたつの魅力を持ち合わせた大磯は、江戸の浮世絵にも描かれているように、風情と粋を感じさせる町並みが今も地元の人々によって大切に守られています。
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