彦根の粋なスポット、名庭と五百羅漢〜天寧寺・龍潭寺〜

彦根の粋なスポット、名庭と五百羅漢〜天寧寺・龍潭寺〜

更新日:2015/06/20 16:11

彦根と言えば、やはり彦根城です。JR彦根駅から西へ1キロ未満の位置に天守閣がそびえており、城下町も夢京橋キャッスルロードを中心に整備されています。そのため、彦根観光の舞台は駅の西側に定まってしまっている感があります。
ところが、彦根の名所は山の迫る東側にもあるのです。それが、天寧寺と龍潭寺になります。どちらも個性的で、訪れた甲斐を感じさせてくれます。

五百羅漢との意外な出会い「天寧寺」

五百羅漢との意外な出会い「天寧寺」
地図を見る

JR東海道本線を隔てて、彦根城の南東。駅から約1キロほどの丘に文政11(1828)年建立されたのが井伊直弼の父・直中ゆかりの天寧寺です。

直中は相手の判らぬ子を宿した腰元を不義により手打ちにしました。ところが、その子の父親が自分の息子と分かり、自分の過失を認めます。そこで、腰元と初孫の菩提を弔うために創建したといわれるのがこの寺です。そして、京都の仏師を招いて五百羅漢像を彫らせました。

五百羅漢像は「亡き親、子供、愛しい人に会いたくば、五百羅漢にこもれ」と言われるほど、必ず自分の探し求める人の顔があるといいます。じっくりとその顔を覗いてみましょう。

静かに名庭と対峙できる「龍潭寺」

静かに名庭と対峙できる「龍潭寺」
地図を見る

龍潭(りょうたん)寺は、井伊直政が以前の領地であった遠州国井伊谷から移築した井伊家菩提寺です。慶長6(1601)年に着工し、2代藩主・直孝の代に諸堂が落慶しました。

こちらの最大の見どころは江戸初期の名庭「ふだらくの庭」です。方丈の南側、白砂を敷き詰めて大小48石を放射状に配しています。中央の石組は観音菩薩の浄土・補陀落(ふだらく)山を、白砂は大海、手前の生垣は水平線、奥の生垣が雲を表現しています。

他にも佐和山を借景に浄土世界を表現した書院東庭、花々が美しい露地の書院北庭、蕉門十哲の一人・森川許六が描いた56面の襖絵も見逃せません。

足を延ばして三成の居城跡もいかが「佐和山城跡」

足を延ばして三成の居城跡もいかが「佐和山城跡」
地図を見る

龍潭寺の建立されている佐和山は、かつて石田三成の居城がそびえていた地でもあります。龍潭寺山門前の道は佐和山城の搦手(裏手)でもあり、山頂方面に向かって歩けば城の本丸に向かうことができます。写真は山門付近に立つ石田三成像です。

現在は堀や、石垣などこの場所が城だったことを偲ばせる遺構がわずかに残るのみです。しかし、かつては山頂部の尾根に本丸、二の丸などの曲輪が設けられ、本丸には五層の天守閣がそびえていたと言われます。今の姿からは想像できません。

人気もなく、荒廃した山城の跡ですが、戦国時代を語る上で欠かすことのできない人物が確かに、ここを居城としていたのです。時間と体力があれば、こちらまで足を延ばしてみても良いでしょう。

彦根は山手まで彦根です

ここでは彦根に訪れても見逃しがちな彦根城の反対側、山手の名刹2寺、これに加えて城跡を紹介しました。しかし、まだ史跡はあります。

龍潭寺の南、300メートルほどの清凉寺は三成の家老・島左近の屋敷跡で佐和山城落城や左近にまつわる「清凉寺の七不思議」が伝わります。龍潭寺から400メートル程度北、大洞(おおほら)弁財天の名で知られる長寿院は彦根城の鬼門封じで、本堂の華やかな彩色から「彦根の東照宮」と呼ばれています。

空襲被害も比較的少なく、大きな自然災害も免れ、三成・井伊家より伝わり継承されてきた歴史や逸話によって彩られた彦根。余すことなく味わいましょう。

掲載内容は執筆時点のものです。

- PR -

条件を指定して検索

- PR -

この記事に関するお問い合わせ

- 広告 -