神功皇后の伝説が残る広島県三原市〜海の守護神・糸碕神社へ

神功皇后の伝説が残る広島県三原市〜海の守護神・糸碕神社へ

更新日:2015/06/13 18:25

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
広島県三原市糸崎地区に、神功皇后ゆかりの神社・糸碕神社があります。小早川隆景が開いた城下町三原と日本遺産でもあり、潮待ちの港だった尾道の間に位置している糸崎地区は、昔から風待ちの港としても栄えました。そんな糸碕神社は、天平時代に建立された由緒正しい神社です。万葉集にも詠まれた歴史ある神社で、神功皇后の伝説や瀬戸内海の美景、さらに樹齢推定500年以上の大楠がお出迎え♪尾道・三原観光の際にはぜひ!

糸碕神社神門は、三原城内の遺構

糸碕神社神門は、三原城内の遺構

写真:村井 マヤ

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糸碕神社は旧称を「糸崎八幡宮」とし、天平元年(729)年に宇佐八幡宮より御分霊として応神天皇の御産髪を勧請して創祀したと伝わっています。

現在は、神社の前に国道2号線が走り、神社の裏をJR山陽本線が通っていますが、その昔は神社のすぐ前には、遠浅な干潟のような海が広がっていました。
江戸時代に熊本藩筆頭家老・松井章之が、絵師に描かせた糸碕神社前の風景画は美しいものです。当時の糸崎の海は、熊本から来た家老の心を動かしたのでしょう・・。
この絵の本物は、熊本にありますが、写しが神社の社務所に飾られていますよ。

さて、写真の鳥居の奥に神門が見えますが、この神門は、明治8(1875)年に、三原城内にあった侍屋敷門が移築されたもの。三原城遺構は現存しているものが少なく、この神門は貴重な遺構です。

万葉の時代に「長井の浦」と呼ばれた伝説の地

万葉の時代に「長井の浦」と呼ばれた伝説の地

写真:村井 マヤ

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ここ糸崎を大和朝廷は「長井の浦」と呼びましたが、その長井の浦について詠まれた歌が3首ほどあります。写真は、その万葉の歌を歌碑として建立したものです。糸碕神社の鳥居の右側に歌碑はありますので、ご覧になって下さい。

「帰るさに 妹に見せむに わたつみの 沖つ白玉 拾ひて行かな」と、歌は詠まれています。意味は「帰りに愛しい人に見せるため海岸の白い小石(鎮懐石・子安石)を拾って行こう」という、家で待つ愛しい恋人か妻へ、神功皇后が出産を遅らせたという伝説の石を拾って帰ってあげようという愛の歌。

天平8(736)年、聖武天皇の命を受けた遣新羅使たちは、奈良の都から難波の港に出て、そこから新羅に向かって船出しました。途中、鞆の浦をたち翌日の夕方、長井の浦に着きました。この地に立ち寄った遣新羅使の一行は、神功皇后が船を停泊した地で、しばし休息し奈良の都へと帰って行ったのでしょうか。

上記の歌によって、神功皇后の子安石・鎮懐石の伝説がこの地に天平時代からあることが分かります。神功皇后の伝説と言うのは、三韓に攻め入る際、のちの応神天皇を身ごもっていたのですが、なんと臨月だったとか・・。それでは戦えないので、海辺の石でお腹を冷やして出産時期を遅らせ、帰国後無事出産したというもの。この伝説によって子授・安産の神様として崇められています。

ところで、長井の浦という地名は朝廷が名付けたもので、本来はそれ以前からこの地は、「いとさき」と呼ばれていたそうです。

神功皇后が長井の浦(糸崎)で使用した御調井(古代の井戸)

神功皇后が長井の浦(糸崎)で使用した御調井(古代の井戸)

写真:村井 マヤ

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神功皇后が西征の際、皇后はこの長井の浦沖合に軍船を繋ぎ、この地で水を調達しました。その時水を献上した村長は、木梨真人といい、真人神社として糸碕神社境内に祀られています。
その献上された水を「長井の水」といい、そこから長井の浦と称されたと言われています。

その水をくみ上げた井戸を「御調の井」といい、直径120cm、深さ360cm、自然石で築かれ、海のすぐそばに掘られていながら、どんな高潮の時でも、塩分が混じることはない真水。宮司さんのお話だと、糸碕神社の裏山が花崗岩質の山で、山の豊かな水がこの神社の下に流れているのではないか?とのこと。大自然の豊かな恵みですよね!

樹齢推定500年以上の大楠〜今も成長し続ける?!

樹齢推定500年以上の大楠〜今も成長し続ける?!

写真:村井 マヤ

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写真は、糸碕神社境内の本殿の脇にどっしりと根を張り、訪れた人を出迎えてくれます。

樹高30m、樹囲15m、樹齢推定500年以上の大楠。楠の下部の大きく膨らんでいる所は、根元でどんどん大きくなっているそうです。この根元は空洞になっている所があり、かなり窮屈ですが、寝そべってなら入ることができ、楠の香が漂っています。昔の人は、この楠の葉を集めて箪笥の底に敷き詰めて虫よけにしたと言います。
楠の香を思い切り吸って、プチ森林浴も楽しめそうですね♪

新しくできた船を係留した烏帽子岩が海の側に

新しくできた船を係留した烏帽子岩が海の側に

写真:村井 マヤ

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写真の2つの岩は、烏帽子岩と呼ばれています。
昔は、この二つの岩はもっと神社の側にありました。今は、神社前の2号線より海側が埋め立てられ、神社と海(干潟のような遠浅の海)の間にあったこの烏帽子岩が、埋め立てによって遠く離れた海のすぐ近くに移動して祀られています。この岩は、新しく船が出来上がったときに係留するための大切な岩だったため、ちゃんと参道を模した白い道もあります。

瀬戸内海がすぐそこに広がり、ちょっとした公園になっています。瀬戸内海の島々も間近に見ることができる、散策・散歩コースです。
風がそよぐと、ふわっと潮の香が漂い、美しい瀬戸内海の風景に心奪われます。

伝説の神功皇后の子安石は、実はカイロだった?!

糸碕神社は、由緒正しい格式ある神社で時の権力者の庇護の下、大切にされてきた神社です。神功皇后ゆかりの井戸もある神社。神功皇后の伝説は、瀬戸内海、九州の沿岸部に多く残っており、「子安石・鎮懐石」を祀る神社もあります。

一般的に、神功皇后の子安石・鎮懐石の伝説とは、お腹を石で冷やして、出産を遅らせたというもの・・。そして帰国して無事出産したので、子授・安産の守護神になったことはすでに述べた通り。

先ほどご紹介した万葉の歌でも、石を拾って帰るとありますが、これは安産祈願のためかと思われます。この長井の浦の石を神功皇后も拾ったのではないか?という神話のロマンもちらほらしますね。

それともう1つ、糸崎の漁師さんたちは、漁に出る際に石を温めてカイロのように利用したそうです。そう考えると、石を温めてお腹にあてたのかな?っていう疑問も・・。あまり深く言及はしませんが、そんな面白いお話も宮司さんから聞けるかも♪旅人は、ロマンに身を委ねて、事の詳細は専門家に任せましょう・・。

美しい瀬戸内海を旅する際は、海の旅の安全祈願に立ち寄ってみて下さい。神話のロマンと楠の香漂う清らかな空気にきっと癒されますよ。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/06/02 訪問

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