愛情を感じとる一日!?茨城県取手市内「愛ある」お寺巡り

愛情を感じとる一日!?茨城県取手市内「愛ある」お寺巡り

更新日:2015/05/12 14:58

井伊 たびをのプロフィール写真 井伊 たびを 社寺ナビゲーター、狛犬愛好家
愛の情にはいろいろある。子を思う親の愛。恋しい人への愛。かけがえのない家族間の愛。代償を望まぬ愛情。そして、それに応える愛。また、愛玩物や愛玩動物への愛など。そんないろいろな愛の形を改めて感じとる一日。こころがポォワ〜と温かくなる一日をあなたにプレゼントしたい。

時代が変遷し世の中がどんなに変化しても、人の心には愛情は棲み続けいつまでも普遍だ。愛の形を茨城県取手市内のお寺巡りで感じてみませんか?

「高源寺」の樹齢1600年の地蔵ケヤキ(茨城県指定天然記念物)

「高源寺」の樹齢1600年の地蔵ケヤキ(茨城県指定天然記念物)

写真:井伊 たびを

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取手市下高井にある高源寺は、「普蔵山高源寺」と号し、臨済宗妙心寺派の名刹だ。承平元年(931年)に「相馬小次郎平将門釈迦如来之霊験」によって建立されたと伝えられる。

本尊は釈迦如来で、境内には茨城県指定天然記念物のケヤキの大樹がある。その幹の根元の空洞には、子育て地蔵尊が安置されているため「地蔵ケヤキ」と呼ばれている。この「子育て地蔵尊」には、安産・子育てにご利益があると言われ、女性の参拝者がいまも絶えない。

このケヤキは、樹齢1600年、根周9.8m、樹高15mあり、昭和14年に天然記念物として茨城県文化財に指定された。言い伝えによると、このケヤキの大きな洞は、寺が火災にあった際に焼けたものといわれている。いつの頃からは不明だが、洞内には子育て地蔵が祀られた。このお地蔵様は霊験あらたかで洞をくぐりぬけて詣でれば安産疑いなしといわれている。

まさに、親の愛。父の恩は山よりも高く、母の愛は海よりも深しだ!

「長禅寺」の三世堂(茨城県指定文化財)

「長禅寺」の三世堂(茨城県指定文化財)

写真:井伊 たびを

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JR常磐線「取手駅」から徒歩3分のところにある長禅寺は、「大鹿山長禅寺」と号し、臨済宗妙心寺派に属している。平将門の祈願寺として創建されたお寺である。慶安2年(1649年)将軍徳川家光より寺領5石3斗を賜る朱印状の交付を受け、以後明治維新まで歴代の将軍より朱印状を受けている。

南側の石段をのぼりきると、正面に建つのがこの「三世堂」だ。外観は2層だが内部は3層で、「さざえ堂」の形式になっており、上り階段と下り階段があり、堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっている。現存する「さざえ堂」形式のお堂では、日本最古のものだ。

棟札によれば、宝暦13年(1763年)に建立された堂が大破したため、享和元年(1801年)に再建されたとある。1層に坂東三十三か所観音札所、2層に秩父三十四か所観音札所、3層に西国三十三か所の各本尊の写しが安置されている。合計百体の観音像があることから、「百観音堂」とも呼ばれている。残念ながら、内部は現在一般公開されていない。

ところで、この三世堂は、明治文壇「菊池幽芳」の恋の舞台でもある。菊池幽芳は、「己が罪」や「乳姉妹」などの新聞小説・家庭小説で一世を風靡した作家である。彼が、若き日に教員として赴任し、この地の乙女と恋に落ち、将来を誓いあった場所といわれている。この時、幽芳は数え年で22歳、相手の杉浦玉枝は17歳だった。

しばしば若き二人はこの三世堂に登った。日はまさに西に落ちんとし、利根川の水は金色に輝き、また富士山がくっきりと見える中で、二人はしばしの別れを惜しんだのだ。後に幽芳は杉浦玉枝と結婚し、終生恵まれた夫婦生活を送ったという。

三世堂を見上げれば、幸せそうな若い二人の姿が、浮かびあがり心が和んでくる。

「本願寺」の境内にある「一筆啓上」の碑

「本願寺」の境内にある「一筆啓上」の碑

写真:井伊 たびを

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取手市 青柳にある本願寺は、「光明山本願寺」と号し、浄土宗のお寺である。応永3年(1396年)浄土宗中興の祖、了誉聖げい禅師の開創によるものだ。禅師、常陸瓜連より江戸へ上る途中、一堂を建立したのが当寺である。その後天正年中、本多作左衛門重次が、この地に封ぜられるや当寺を菩提所と定め、二十石の供養料を寄す。

三河三奉行の1人で、徳川家康に仕えていた本多作左衛門重次は、主君の家康に対してさえ歯に衣着せぬ物言いで、鬼作左といわれたほどだ。その剛直さが災いし、豊臣氏に対する度々の無礼を秀吉にとがめられ、上総古井戸3千石に蟄居を命じられた。その後下総井野(取手)に移り、慶長元年(1569年)7月16日、68歳にて没した。

お墓は桜ヶ丘(台宿2丁目)にあり、茨城県の史跡指定になっている。当寺には重次着用の具足類、家康から拝領の金扇などが寺宝として保管されている。ところで、「本多作左衛門重次」の人となりをあまり知らない人でも

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」

は、ご存じだろう。重次が陣中から家族に当てた日本一短い手紙文として、あまりにも有名だ。文中お仙とは嫡子仙千代のことで、長じて成重と称し、福井の丸岡城主となった。

短文に凝縮された家族に対する温かい愛情が迸り出る文面だ。深い家族に対する「愛情」が現代まで届いてくる。

「光明寺」は、「一本刀土俵入り」にゆかりの寺

「光明寺」は、「一本刀土俵入り」にゆかりの寺

写真:井伊 たびを

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取手市桑原にある光明寺は、境内に南天の木が数多く植えられているので、別名「南天の寺」とも呼ばれ、真言宗豊山派のお寺だ。

当寺は長谷川伸作の「一本刀土俵入り」にゆかりの寺で境内には、原作者の都々逸の歌碑や「一本刀土俵入り」の主演をつとめた人間国宝である先代(17代)中村勘三郎丈の追慕碑もある。

「一本刀土俵入り」といえば、1931年に歌舞伎として初演されて以来、新劇、新国劇をはじめ、浪曲など様々なジャンルにわたって上演され続けてきた名作で、水戸街道、利根川沿いの宿場町を舞台にした話。取手はその舞台となったところだ。

宿場町・取手の茶屋旅籠の二階で、酔いをさましている酌婦お蔦。そこへ空腹でふらふらしながら取的の茂兵衛が通りかかる。天涯孤独な身の上の茂兵衛は、立派な横綱になって故郷の母親の墓の前で土俵入りの姿が見せたいという夢をあきらめられず、無一文で江戸へ向かっていると言う。

母親想いの純情一途な茂兵衛の話に心をうたれたお蔦は、持っている金全部と櫛、簪まで茂兵衛に与えて立派な横綱になるようにと励ます。茂兵衛はこの親切を生涯忘れないと誓う。茂兵衛の夢にかけるお蔦の心遣いに、応えようとする茂兵衛だったが・・・。

十年後、渡世人となった茂兵衛はお蔦を尋ねて、十年前の恩返しにと金を渡す。お蔦は茂兵衛を覚えていない。イカサマ博打で追われるお蔦の夫を刀で救う茂兵衛。「お蔦さん!これがアッシのシガネェ土俵入りでゴザンス!」と、茂兵衛が見得を切る場面で、ホロリとくる観客は多い。

「昌松寺」の人形供養塚

「昌松寺」の人形供養塚

写真:井伊 たびを

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取手市井野にある昌松寺は、人形供養の寺として有名だ。

今まで大切にしてきた人形やぬいぐるみ、思い出がいっぱい詰まった物を捨てるのは可愛そうだが、どうしていいか分からないという人も多い。そんなお人形を心を込めて手厚く供養してくれるお寺だ。

この世にあるもの全て、同じ状態であり続けるということはなく、移り変わっていくという。仏教では、それを「無常」という。月日を超えて傷んでしまったお人形を供養することで、物を大切にして、感謝する心を育んで欲しいとの願いが込められている。

ただし、供養をお願いするには、電話による予約が必要だ。

最後に

「長禅寺」は、JR常磐線「取手駅」東口より徒歩3分のところにあり、「本願寺」「光明寺」「昌松寺」も「取手駅」から、それぞれ徒歩20分前後で訪れることができ、四つのお寺を歩きがてら巡ることもできる。

しかし「高源寺」だけは、JR常磐線「取手駅」で乗り換えの関東鉄道・常総線「稲戸井駅」より徒歩20分のところだ。

いろいろな愛の形にふれて、心の洗濯をしてみる一日にしてみてはいかがだろう。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/04/25 訪問

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